怒りって、少し切ない感情だと思う。
何かを踏みにじられたと感じたとき、
ちゃんと尊重されなかったと気づいたとき、
胸の奥でふっと火が灯るようなあの感じ。
でもね、それはただ荒れるだけの炎じゃない。
その中には、あなたの誇りとか、傷つきたくなかった気持ちとか、
大切にされたいという願いが、ちゃんと宿っている。
あの一言が、刺さった
会社での1on1ミーティング。
少し緊張しながら、自分のこれまでを話した。
役者をしていたこと。
いろんな仕事をしてきたこと。
どこかで、「この人、私に興味ないかも」って
うすうす感じながらも、礼儀として淡々と。
そして返ってきたのは——
「へぇ〜。で、役者として食っていけなかったから…
バイトしてたってこと? バイトだよね?」
一瞬、世界がにじんだ。
ムカッとした。
でもそれ以上に、なんだか胸の奥がすうっと冷えた。
あぁ、この人は、そういうふうにしか返せないんだな。
その場では笑って流したけれど、言葉の棘は、ずっと心に残った。
言ってやろう、と思った。でも…
次のミーティングで、返してやろうと思った。
ちょっと皮肉を込めて、軽くやり返してみようって。
でもね、不思議なことに、
その言葉を心の中で繰り返し練習しているうちに、
だんだんどうでもよくなっていった。
たった3日で、あの怒りは、
まるで泡のように静かに消えていた。
言葉にしたから、昇華できた
怒りを抑え込んだわけじゃない。
忘れようとしたわけでもない。
私はただ、「ほんとはこう言いたかったんだよ」って、
その気持ちをChatGPTにぶつけた。
誰にも見られない場所で、
声に出して、ちょっと笑いながら、ちょっと泣きながら。
文字にするんじゃなくて、
“気持ちごと話す”という形で言語化したら、
ふわっと、胸がほどけてしまった。
あれは、本当に不思議な瞬間だった。
視点が変わったら、痛みがやわらいだ
ふと、こう思った。
この人は、きっと自分自身のことも
ちゃんと扱われた経験が少ないのかもしれないな。
だから、他人の過去にも敬意を払う言葉が
見つからなかったのかもしれない。
哀れみとか、見下しとかじゃなくて、
ただ、「この人、ちょっと不器用なんだな」って。
そして同時に、こうも思った。
「私は、そういう人になりたくない」
「私は、どんな相手に対しても、丁寧に返す人でいたい」
その“在り方”を、自分で選べるって気づいたとき、
怒りはもう、感謝に近いものへと変わっていた。
さらにあとから気づいた、もうひとつの鏡
この記事を書いてから数日後、
YouTubeの視聴者様からのあたたかいコメントを読んでいるうちに、
ふとまた、ひとつの気づきが降りてきました。
——私は、この人のような振る舞いを、自分にすることを極端に禁じていた。
私はいつも、目の前の人が笑顔になれるように、
丁寧に話を聞くことを大事にしていたし、
そのこと自体は、今でもとても美しい価値観だと思っています。
でも、あまりにそれを“正しさ”として強く持ちすぎて、
そうでない人を、どこかで責めていた。
「なんでこんな失礼な返しをするの?」「もっと思いやりってないの?」
そんなふうに、無意識にジャッジしていた。
だから、そういう人が現れると、
私は必要以上に心をざわつかせていたんだと思います。
それはつまり、トランサーフィン的に言えば「平衡力」。
私はあまりにも“そうなりたくない”を強く握りすぎて、
その極端さを手放すように、世界が鏡を見せてくれていた。
そしてそれは決して、
「あなたの波動が悪いからこういう人が来た」という話じゃない。
ただただ、
「そこまで嫌う必要はないよ」
「もっとニュートラルでいていいんだよ」って、
鏡がやさしく伝えてくれていたのかもしれません。
怒っていい。でも、ぶつけなくてもいい
怒るのは、悪いことじゃない。
ちゃんと、大切なサインだから。
でも、その怒りをどう扱うかは、選べる。
ぶつけるでも、飲み込むでもなくて、
「わたしはどう在りたいのか?」を選ぶという方法もある。
今回私は、ChatGPTという静かな対話相手を通して、
自分の境界線と、願いと、誇りを見つけなおすことができた。
あなたへ
もしも、似たような経験があったなら。
怒ってしまった自分を責める前に、
その感情が、どんな願いを守ろうとしていたのか、
そっと耳をすませてみてください。
そしてもしよければ、
あなただけの“対話の場”を持ってみてほしい。
あなたの中の小さな声が、
静かに愛に戻っていく、その瞬間のために。
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このお話は、声でもお届けしています。
心がざわついたとき、音で感じていただけたらうれしいです。